ごあいさつ
創業者 中川 高
nakagawa takashi
ハンドバッグのナカガワは昭和21年1月4日、仙台市旧東一番町23番地の仙台駅まで見透かせる焼土の中に開業して本年で25年を重ねました。ハンドバッグの専門店としての色彩をようやく明確に出来たと感ずる此の頃です。
創業以来25年を顧みて敗戦の混乱と激動の創業期は、その日々が手探りの如き中に人間的ふれあいをモットーとし、力いっぱいの努力を続け今日に至りました。
25年。短くもあり又、今後も続く理想を求めて戦いの連続と感無量でいっぱいです。
永い年月をご支持頂いた皆様のお陰で、果てしない理想に近づきつつある此のささやかな店舗の完成を見たことは誠に身にしみて有難く、御礼を申し上げ将来も変わらぬご指導をお願いしてやまない次第です。
昭和四十六年八月
創業者 中川 高



昭和20年12月
日本人にとって決して忘れる事の出来ない昭和20年。
「敗戦」と言わず「終戦」といったところで、その痛手が消えるものではない。全てが混乱の渦であった。仙台の街も、全国の主要都市と同じく市街地はすっかり焼け野原と化し8月15日を迎えたのである。
「千振堂(ちふりどう)」と号する大町1丁目(現西公園前)の刀剣店の主人、中川 高氏も為す術を知らず、只忙然とした日々をむなしく送るのみであった。
当時の仙台は中央部に藤崎・三越両デパートと市役所が残されただけで一番町から仙台駅がすっかり見えるほどで杜の都の面影など消え失せてしまっていた。日本全土が失意の中に押し込められていた時代でもあった。
その中で氏は、何にも増して愛してきた数十口の日本刀をジープに分乗した進駐軍と日本警官とによって没収されていった。ポツダム宣言受諾による日本刀狩りである。次の仕事の模索から始めなければならなかった。とにかく、東京を見ようと決心。薄汚れた狂気とも思える程の混雑する汽車に乗り模索の旅が始まった。
確かに東京も焼け野原ではあったが、しかし生きることへの意欲が見え始めていた。問屋街の馬喰町もすっかり焼土と化していたが、銀座には人があふれ露店が立ち並び、商品といえるかどうかの物まで飾られていて、人いきれの中で取引されていた。
なにも。本当に何もない時代である。なんでも形あるものは人々の欲望の対象となっていた。
殊に駐留軍が非常に関心をもっている貴金属アクセサリーは価値の急激に変動する貨幣よりも珍重されるものであることに気付いたのである。
もともと、日本刀は総合美術品で色々の素材と(勿論貴金属も使用している)工人の手によって作られたものであり、この様な品の鑑識に長じている氏は、心の中ではっきりと次の商売の決断をしていた。
急ぎ仙台に戻ると焼け野原の中で店舗となるべき土地の物色から始める。勿論焼土と化した中での未来の繁華街を夢見たのである。
方々足まめに通った挙句、将来を見越して選んだ土地、それが旧東1番丁23番地(現1番町3丁目)であった。師走も押し迫った12月、障害物のない原野のようにすさんだ街角に木枯らしが音を立てて吹いていた。
物の不足した時である。店舗らしき作りはしていても、バラックというに等しい貧弱なものに他ならない。間口2問、奥行き1,5間の小さな小さな店舗の造作であったが、物が無いだけになかなか進まない。開店を翌年1月の4日と決めて、ないないづくしの店舗づくりに精を出した。勿論、家族ぐるみでの移転であって裏に小さな住居も一緒であった。



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